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2007年4月13日金曜日

思えば母から運転教習を受けたのだった



今晩の日経「こころの玉手箱」コラムでTDK会長の沢辺肇氏が運転免許教習所での屈辱体験を書いて居られた。40歳を過ぎて免許証が必要になったのだが、年下の教官からぼろくそに侮辱されたのがトラウマとしていまでも残っているとのこと。そのことを思えば、教習所に行かなくてすんだ散人は幸せだった。

運転免許証は18歳の春に取った。どうしても春休み中に取りたかったのだが教習所に行く時間が無く、母親に運転を実地で教えてもらった。当時、武庫川の河川敷に廃業した運転免許教習所のコースがあったので、母親と一緒にそこに毎朝数回通って練習した。その後すぐ、明石の運転免許試験場まで電車に乗って出かけ、一回目は見事に不合格だったが、二回目に合格した。おかげで運転教習所での不愉快な体験をせずにすんだ。

女性でクルマの運転が出来るというのはまだまだ少数派だった時代である。母親は、はっきり言って運転は下手くそだったが、とても格好良かった。その母親に教えてもらったおかげで、散人のクルマの運転は教師であった母親譲りそのまま。だから、いまだに車庫入れと縦列駐車は苦手だ。でも、免許試験場ではエンストは禁物で十点引きだが、一方坂道発進での空ぶかしはいくらやっても一点引きだから壮大にやればいいとか、いろいろ対策を教えてもらったので教習所に通わず免許が取れた。

その母親も、すっかり歳をとってしまって、昨年亡くなった。散人は、運転免許を取ってからすぐ実家を離れ、以来ほとんど実家に帰らなかった。もうちょっと母親孝行をして居ればよかったと、いまだに思う。

2006年5月8日月曜日

ロンドンの勝野康友さんにお教え頂いた「気を遣う」と「気を配る」の違い



東京を十日あまり離れていた間に自宅にファックスが入っていた。勝野康友氏がお亡くなりになったという。4月29日、享年69。

勝野さんについて散人が知るところは、東京大学教養学部をご卒業後、住友商事に入社。以後鋼管貿易部のエリートとして大活躍された人ということ。散人が鋼管貿易に入った時には、勝野さんはロンドン支店の鋼管担当責任者として、雲の上とも言えるエライ人だった。何せ非米系メージャー石油会社が買い付ける鋼管類の買い付けを一手に対応する現場の大責任者であったのだ。イラク、イラン、中東、アジア、南米など石油会社のオペレーションの資材購入のほとんどをロンドン支店が(つまり勝野さんが)ハンドルされていた。ものすごく頭がいい人という印象で、実際とてつもなくシャープだった。実績は素晴らしいが、同時に彼に嫌われてしまった人も多くいた。とても怖い人だったのである。

でも、世界の流れは、メージャーオイルの資材集中購買という伝統的な方法とは逆に流れていた。各国の石油資源はどんどん国有化され、資材購買はどんどん現地化して行ったのである。しょせん、メージャーオイルの集中購買に依存するロンドン支店の商権は小さくなる一方。その点、米国でのローカル商売に徹していた米国出先の扱いは安定的だった。結局、勝野さんは、鋼管ビジネスでの花形の地位を米国土着ビジネス担当者に譲ることとなる。グローバリズムがローカリズムに敗れたとも言える。その後ビジネスの第一線を退かれ、本社部門の広報室長となられる。本人としては不本意なことだっただろうと思う。でも、広報室長としての活躍も驚異的な物だった。「広報は営業」。その精神で素晴らしい実績を上げられた。会社のマスコミ注目度も飛躍的に向上した。

広報室長で居られた頃は、調査部にいた小生の隣で執務されていた関係上、いささか近い距離で勝野さんをお見受けした。悠々たるご執務ぶりは実に立派だった。みんなが緊張してしまうワシントンからの大物の来訪にも実に巧みに対応していただき、僕らは面目を施した。

そんなことよりも、散人個人にとってとても印象深いことがある。散人が中南米某所で駐在していた際だがいささか精神的に参っていた時があった。その時、勝野さんが出身元の東京鋼管貿易部の部長として現地に出張してこられた。実にうまく関係者との確執を取りなしてくれた。その後、勝野さんが小生を食事に誘ってくれたが、その時の言葉が今も忘れられない。「人間『気を遣う』ということと『気を配る』ということは違うのだ。君は『気を遣って』いるけれど『気を配っていない』」と言われた。

いまだに小生は「気を遣う」ばかりで「気を配る」のは苦手だ。でも、その二つの違いは理解できるようになったのは、勝野さんのおかげだ。ご冥福をお祈りしたい。

2006年1月18日水曜日

アクアリアンさんが散人をドンキホーテにたとえる……身に余る光栄だ!


ようやく一段落したみたいだが、新潟の大雪にからみ「なんであんなところに人が住む?」と書いたら、皆さまからたいへんなお怒りをこうむってしまった。はてなブックマークはたいへんな勢いだったし、気の弱い散人は、ただただオロオロするばかりだったが、あたたかく理解を示してくれる人もいて、とてもうれしくなった。
Aquarian's Memorandum: 散人先生の「でも、なんであんなところに人が住む?」を考える: "農協などという日本最強の圧力団体を相手に、個人として戦いを挑んでおられる様子は、失礼だが、ドンキホーテを思い出してしまう。"
ドンキホーテだって、うれしい。映画 「ラマンチャの男」はよかった!


小説の『ドンキホーテ』では主人公は最後は生気になり、敬虔なキリスト教徒として一 生を終えるのであるが、映画版「ラ・マンチャの男」のよいところは、主人公はいったん正気に目が覚めるが、最後には再び「狂気」に戻るという点。「達成で きない目標(見果てぬ夢)」に最後まで邁進するというフィナーレが最高に感動的だった。

ラ・マンチャの男
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ア クアリアンさんは、「心の優しさ」が大切と諭される。同感である。心の優しさこそ、一番大切にしたいものだ。弱者に対する優しさである。散人は、大都市で 恵まれない暮らしをしておられる方々こそが、日本システムの真の犠牲者(真の弱者)であると確信している。だから彼らを苦しめる農村・漁村利権集団の批判 を続けている。それをわかって欲しいと思う。

ドン・キホーテに戻るが、時には人間、狂っている方が「気持ちがいい」のである:
内田樹の研究室: 鬼婆と集団的狂気: "下川先生の鬼婆解釈は「鬼であることは婆であることよりも気持ちがいい」という「疾病利得」をふまえたものだったのである。"

これについては、精神科医の立場からのご批判もあるが(医学都市伝説)、まあ、文学だから大目に見てやれ。(狂人を題材にした武田泰淳の『富士』の前書きでも、精神科医の斎藤茂吉は「これは文学だから」と大目に見たよ)。

散人も、死ぬまで「狂った」ドン・キホーテを続ける所存。

2005年10月24日月曜日

「地方には、貧乏人は住めねえ」だって……都会もんは決して農村に「第二の人生」なんか求めてはいけません!


リファラーを見ていると、散人が書いた「強者・弱者の定義を考えよう(地方の方がよほど豊かだ)」という記事に対するコメントに出くわした。曰く:
馬鹿でねえの? 地方には、貧乏人が住めねえからだよ。

このブログではこれ以上の言及はないので、URLをリファーするのは差し控えるが、彼らの本音がよく出ていると思う。あいつらの考えによると、都会は「貧乏人」が住むところ、地方こそが「まともな金持ち」が住むところであるらしい。


今晩のテレビ(チャンネル失念)でやっていたが、横浜に住んでいた夫婦が北海道に第 二の人生を求めようと、小さな土地を買ってたいへんなご苦労をされている生活を紹介する番組があった。地元にとけ込もうとするご両人のご苦労には頭が下 がったが、所詮、彼らとは「階級が違う」。目黒の碑文谷にぽっと出の田舎の夫婦がやってきて近所付き合いをしようとしてもうまく行かないのと同じ。彼ら (横浜人)も周りから完全に浮いてしまっているのだ。定年退職者などの都会もんは、地元の人にとっては「貧乏人」でしかないからである。

イ ナカモンに「貧乏人」と馬鹿にされながら、なおかつイナカモンに貢いでいる都会もんは、本当に可哀想。今晩の馬鹿グルメ番組でも知床に行って、地元のすし 屋で一人前2500円也のランチ定食を有り難がって食う都会もん老夫婦の映像が紹介されたが、アホを通り越している。一匹2500円の○鯖もそうだ。いい 加減にイナカモンにいいようにボラれるのは止めたらどうかな?


追記)数字で見てもやっぱりそういうことらしい:↓

世帯の一人あたり年間家計費は、サラリーマンより農家の方が15万円以上多い(日経)


2004年8月3日火曜日

明治神宮が神社本庁から離脱……人のケンカほど面白いものはない!



今朝のニュース。本件フォローしていなかったが、この春以来もめていたようだ。きっかけは案内状のミスプリントだというのだから、次元が低い(?)。散人は本件の経済的側面にむしろ興味がある。本件に限らず「大釜の飯を食う」という結果平等主義はもうそろそろやめるべきだ。

経緯はニュース記事にあるように明治神宮の案内状の「両殿下」というミスタイプ。この責任の取り方を「進退伺い」とするか「始末書」で済ますかでもめた。神社本庁としては「進退伺い」を出させて宮司の首をすげ替え神社庁の威信を示すつもりだったのかしら。明治神宮はそんなの嫌だから「独立する!」となった。

そもそも神社本庁という団体は、戦後の新憲法の中で何とか明治の国家神道(平田神道)体制を守ろうとして作られたもの。「本庁」とたいそうな名前がついているものだから政府機関だと間違う人もいるようだが、そんなもんではない。実質的には裕福な収入がある神社からお金を取り上げて地方の神社に再配分する役目を担ってきた。自民党みたいなもんだね。

明治神宮としては、神宮球場の地主でもあるし、お正月には日本一の参拝客数だし、お金には不自由していない。巻き上げられる一方だったのでこの際いい機会だと思ったのではないか。大慌てしているのが神社庁で、うろたえぶりは滑稽なほど。

本件、単なる神道関係者の間の内輪もめの話ではあるが、時代を象徴しているように思える。イタリアなんかでは何十年も続いているが、結果平等主義に対する「持ちだし一方」の人たちの反発である。グローバル経済の時代になると、人々は国家というものよりもむしろ「町」に帰属意識を持つ。また国境は関係なく「同じ価値観の人たち」にむしろ親近感を覚える。その結果へんな国民国家政府が暴走するのが牽制される。日本もようやく、しかも神道というとても「伝統的」な分野で、こういう風土が出来つつあるのは、喜ばしいことである。


サイト内関連記事(キーワード「神道」で検索)

Posted: Tue - August 3, 2004 at 10:27 AM   Letter from Yochomachi   My Clippings   Previous   Next  Comments (2)  

2003年8月15日金曜日

お盆とお化けと「妙な予感」



今日はお盆である。年に一度ご先祖様の精霊が帰ってこられる日だ。いろいろ不思議なことも起こるらしい。個人的には今までそれほど不思議な体験をしたことはないが、ひとつだけ奇妙なことがあった。

子供の時、夏になるとお化けごっこをして遊んだ。スイカの殻に穴を開けてお面を作り、毛布を上から被せたお化け装束で人を驚かせたものだ。子供のやることだからご愛敬であり、大人は驚いたふりをするだけであったが、根が単純だからお化けを演じている自分の方が本気で怖くなってしまう。想像力を肥大させてお化けは実在すると信じて暗闇を恐れおののいた。馬鹿な子供である。

特に怖かったのは二階に上る階段であった。一番小さい子供だったから夜寝るのも一番最初であり、一人で二階に寝に行くのであるが、これが怖くて怖くてしようがなかった。階段には電灯があるのだが、スウィッチが下についている。二階では電灯を消せないので、一階で消してから階段を上ると言うなんとも非合理的な仕組みだった。途中に丸窓があって障子が入っているのだが、月明かりなどがそこから差し込んでぼうっと薄明るい。その丸窓を上に眺めながら階段を上がるのだがこれが怖かった。以来、お化けとは二階の暗いところにおって、まあるい頭をしてマントを被り、人を上から襲う、二階は怖いという確信に近い思いこみをもつようになった。中学生ぐらいになっても一人で二階に上がるのを嫌がったくらいである。要は弱虫ですね。

さすがに大人になってからはそういうことはなくなったが、40年たって、1995年1月16日の夜、久しぶりに帰った実家で寝たが、二階に上がる時、ふと小さい時のお化けを思い出した。「黒いお化けが上から被さってくる」イメージである。いやな予感がしたが、そのまま二階に上り寝てしまった。

翌朝早朝5時46分、突然大音響と共に窓からさす星明かりの中で、黒い物体が頭の上に覆う被さってきた。一瞬にしてこれがあの子供の時夢にまで見たお化けの正体だとわかった。阪神大震災で、寝ていた上にタンスが倒れ、その上に屋根が落ちてきたのである。まったく身動きとれなくなった。普通は一階が壊れるものだが、二階だけが崩壊した。子供の頃の二階にはお化けが出るとの確信と予感は、40年後にたしかに実現したのである。二階は怖いという子供の頃の直感はやはり正しかったのだ。

だから「いやな予感」とか「何か気が進まない」という直感はやはり正しいことが多いのである。あまり軽視しては駄目なのであるというお話し。

ちょっと怖かったですか? 散人は怠け者だからよくこんな話を持ち出しては、やらなければいけない仕事を「気が進まない」と言って怠けてきました。でもやはり「妙な予感」というのは当たるもんなのです。

ともあれ阪神大震災のあと実家は取り壊されてしまったので、今日はお盆ですが散人には帰るべき実家もなく余丁町で過ごしています。東京は夏だというのに朝から冷たい雨。とてもお化けの出る雰囲気ではありません。ゆっくり寝られそうです。

2003年7月4日金曜日

Le Monde ジョージ・オーウェル生誕100年と Blog



今年はジョージ・オーウェルの 生誕100年に当たるらしい(1903.6.25生まれ)。ル モンドのブロッグページ(Sur le Net) ではネットで入手できるジョージ・オーウェル関係の参考文献を列挙している。なかなか立派な図書目録である。原文テキストももちろん入手可能(グーテンベ ルグ図書館)。『動物農場』『象を撃つ』などが懐かしいが、何と言ってもすごいのは『1984』。いま読み返してもとても面白い。映画の「ブラジル」の底 本ともなった古典的名作である。あの中で「ニュースピーク」という人工言語を国民に使用させることで国民の思想統制を図るというくだりがあったが、「形」 が「内容」を決定すると言う意味で含蓄が深い。昨今流行の Blog に付いても同じことが言えるのかも知れない。

『1984』というのはSFで ある。40年後の将来社会はスターリン型の社会主義が支配する世界となっていた。国民は「ビッグ・ブラザー」と呼ばれるリーダーに日常生活すべてを監視さ れながら生きる。絶え間なく戦争が続いているらしい(本当のところは分からない)。ともかく戦争に勝利するためには国民はすべてを犠牲にしなければならな い。ケッサクなのはこの政府は古くさい英語を廃止して、合理的で例外が一切ない短くて能率的な言葉「ニュースピーク」を導入しようとしていること。真の目 的は国民の思想統制である。人間は言葉で考えるものであるから、言葉の構造が規制されるとその構造内でしか思考できなくなるのだ。いまだによく引用される テーマである。Google で調べると国語改革反対論者がオーウェルを引用して次のような論文を書いているぐらいだ。御笑覧↓

1984年』 より「ニュースピークの諸原理」 
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/1984.html
 

でもこのことからふと思いついたのであるが、今流行の Blog についても同じようなことが言えるのかも知れないということ。「ニュースピーク」はSF世界の国民にネガティブな影響を及ぼすのであるが、Blog は特に日本人の思考パターンにとっては逆によい影響を与えるのかも知れないのだ。Blog 形式の特徴としてタイトル、アブストラクト(要約)、本文の三つに分かれると云うことが重要である。

タイトルと本文は特にめずらしいものではない。問題は 「アブストラクト(要約)」。これは日本人はあまり書かないし学校の国語の授業でも要約の訓練は受けないのが普通だ。新聞記事のリードに当たるものだが、 新聞でも記者ではなくたいてい編集者が付ける。それで普通我々は本文だけを書くのであるが、多くの場合なかなかエンジンがかからないためか起承転結の 「起」の部分がだらだら続いてしまうことが多い。日本人の論文が分かりにくいと評される理由の一つだ。

ところが blog ではこれ(要約)を一番最初に書かねばならない。後から書いてもいいが、これが本文の一番上に表示されるので出だしてとしてまずこれを書くことになる。 XML/RSS でフィードされるのもこの部分だ。自分の主張をまず明確にし、本文を読んでもらうためのキャッチとしなければならない。この点欧米人はこれがうまく、よく できた英語の新聞記事では最初の5行を読めばだいたい全部分かるように書いている。新聞記者ばかりでなく学校教育に於いてもそういうのが重視される。 blog とはまさにそういう言語文化に則ったものである。

日本の「随筆」と欧米の「エッセイ」の違いは「アフォ リズム(警句)」の有無であると云われる。この一ヶ月いろんなサイトを拝見しての印象であるが、従来型の日記サイトは基本的に日本の伝統的「随筆」に近い ものが多いのに対し、blog tool で書かれるページと文章は、その形式上の特徴から、自ずとアフォリズムに富んだものとなるようである。これはネットで使用される日本語におよびそれを書く 日本人の思考方法にとって革命的な(大げさかな)変化となるのかも知れない。形式が内容を規定するのである。


2003年2月5日水曜日

瑛子姉のこと

余丁町散人、2003.2.5


一番上の姉、服部(橋本)瑛子姉が亡くなってからちょうど5年になる。1998年2月5日、木曜日夜9時頃電話で連絡を受けた。その前の日曜日に名古屋に見舞いに行ったばかりだった。見舞いに行った時は、まだ意識もはっきりしており、2時間ばかり話が出来た。手を握ると「とても暖かい」と言って放さず、ずっと握り続けていた。

瑛子姉が生まれたのは、昭和8年11月16日、父幸次は25歳、母寿賀は18歳の時だった。その年の2月、日本は国際連盟を脱退。世界恐慌のさなか、日本は軍国主義で破滅に向かって突き進んでいる時ではあったが、父は独立したばかりであったし、大阪の下町での新婚家庭はそれなりに楽しかったようだ。空襲の激化と共に一家は西宮の別宅に疎開。そこで終戦を迎える。瑛子姉は11歳だった。翌年末っ子の尚幸が生まれ、瑛子姉はたまたま近所にある学校と言うことで、神戸女学院中等部に入学。以来昭和31年神戸女学院大学英文科を卒業するまで同じ学校にいた。神戸女学院は阪神間ではピカイチの才媛学校であるが、当初はそういう意識で入学したのではなく、あくまでも近くにあったからというのが理由だったと聞いた。下の二人の姉も全く同じコースを歩むこととなる。

この神戸女学院という学校は、アメリカのミッションスクールでもあり、学生も阪神間の比較的裕福な家庭の娘が多く、一般の公立学校とは相当雰囲気が異なった。当時から、土曜日は休日、日曜日には礼拝があり、服装も制服はなく私服だった。思春期の女子学生は無理をしてでも服装で自己主張をし、毎日同じ服で登校するとちょっと引け目を感じるような雰囲気だったらしい。大阪からやって来たばかりの両親にはそのへんが理解できず、瑛子姉は父親が職業柄入手した「上等の」羅紗で作ったセーラー服で通学した。セーラー服で通学した質実剛健な生徒は、終戦直後の当時でも学年で瑛子姉ともう一人いただけだったと瑛子姉は言っていた。その他、ミッションスクールの特別のルールがいろいろあり、富山県と和歌山県生まれの両親には理解できない点が多かったようで、間に立った瑛子姉はそうとう苦労したようだ。

瑛子姉は努力家でしかも抜群の秀才だった。兄姉の中では一番IQが高かった。数学パズルとかが好きで、読む本の量も半端じゃなかった。漱石全集を自分の小遣いで買いそろえたり、ディッケンズなどの英文学はたいてい翻訳で買いそろえていた。私が小さい時に読んだ本の多くは瑛子姉の買ったものであり、今でも私がフランス文学より英文学に親近感を覚えるのは、その影響なのであろう。ピアノはほとんどプロ級で、ラジオにも出演した。家のピアノがボロだと言うことが彼女の悩みでもあり、またこれで両親ともめた。卒業後、当時としては珍しく職業婦人となり(財)関西経済連盟で事務の仕事をした。非常に有能な人だったが、女性の社会的地位は当時はまだまだ低く、学生時代には家庭と学校の文化ギャップの問題もあり、とてもストレスが高かったように見えた。結婚したのは私が12歳の時だったが、そこで素晴らしい家族に恵まれることとなり、瑛子姉は一転して、目に見えて温和になった。彼女にとって服部奎吾氏との結婚は生涯で最良の選択であったと思う。彼女はとても幸せな生活を送ることになる。

私は彼女とは年も離れておったこともあり、直接的な関係よりもむしろ間接的なつながりが大きいと思う。彼女の蔵書で人格を形成したと言っていいし、最近まで瑛子姉が卒論を書く時に使っていたヘルメスのタイプライターを使用していた。今使っている英英辞書も瑛子姉のオックスフォード・コンサイスだ。彼女の1953年付の署名が入っている。

5年前、最後に瑛子姉を見舞った時、広島に瑛子姉を訪問した時の話などをしたが、彼女は「新婚時代、特に広島で生活していた時が一番幸せだった」といった。この「一番」という言葉に引っかかったが、或いは単に「とても」という意味だったのかも知れない。別れ際に「尚幸は、もっと痩せなければいけない」と過体重を注意された。

以来節制して少しだけだが体重を減らしている。


〔注〕瑛子姉:服部瑛子(旧姓橋本)1933.11.16 - 1998.2.5

2002年9月25日水曜日

父のこと

2002.9.25〔旧HPに掲載〕

父のこと

亡くなった父、橋本幸次は、明治41年9月25日、富山県高岡の農家に生まれた。子供が多く生活は苦しかったようだ。ちなみに富山の米騒動は父が10歳の時に起こっている。大正12年14歳で上阪し洋服屋の丁稚奉公を始める。技術を身につけ大正14年に16歳で百貨店大丸に裁断士として就職。初任給は巡査の初任給は45円という時代に60円だった。数年勤務した後、独立し洋服店を開業。自転車で注文を取りに回る営業で徐々に商売を大きくし、戦後の混乱期も乗り切る。洋服小売では利潤がとれないと昭和26年には洋服小売店の上流部門である服地卸業に進出し、さらに昭和36年に関西ではある程度の名前が知られた食品会社の経営権を取得するなど、事業の幅を一貫して広げていった。97年に88歳で亡くなったが、その前日まで現役を引かず会社に車椅子で出勤していた。個性の強い人間で、独特の人生観を持っていた。時として周りの人間に辛く当たることがあった。

ぼくは五人兄姉の末っ子として生まれたので、年齢的にも父親とはとても距離があり、あまり一緒に遊んで貰った記憶はない。一度天王寺の動物園に連れって行って貰ったくらいだろうか。でも父は子供たちにはとても気にかけていたように思う。自分に教育がなく苦労したことから5人の子供はどうしても全員大学にやると頑張った。あるとき景気が悪く手形の期限延長を頼まざるをえなかったとき、先方はうちの子供は大学にもやっていないのにお宅は女の子まで大学にやって良い身分だと嫌みを言った。父は即座に「だったらその代わり私がタバコをやめる」と言って禁煙の誓いを立て、以来死ぬまでタバコは吸わなかった。子供の入学試験には仕事をさしおいて付き添っていった。自分が付き添うと試験に通るというジンクスを信じていたからである。ぼくの大学受験のときすら、来ないとの約束にかかわらず、試験の日ボタ餅を持ってやってきた。

ぼくは父親とは幸いにして比較的いい関係にあった。それは年齢的に離れていたことと、一緒に過ごす期間が短かったから故に、適当な距離を置いた関係であったからかも知れない。中学高校は受験校だったのでほとんど部屋にこもりっきりだったし、大学では親元を離れて下宿した。家業とは関係のない民間会社に就職し、それも東京だったし、海外も長かった。年に一二度しか顔を会わさない状況が何十年も続いていた。個性の強い人だったから、いつも一緒に居る家族はたいへんだっただろうが、その点ぼくは恵まれていると思っていた。

でも人生の節目節目で父親の力にすがった。絶体絶命の状況に追いつめられたこともあるが、父は何も言わず精神的、経済的に支援してくれた。普段は憎まれ口ばかり叩いてとりつく島もないような父親だったが、いざというときは積極的に救いの手をさしのべてくれたのだった。おかげでまだぼくはなんとか生きている。

亡くなる二ヶ月ほど前、実家に帰って父の顔を見た。ほとんどものを食べない状態だったが、昔と変わらない長舌ぶりだった。さすがに辟易してお暇を取ろうとしたら、父の口から「おとんぼ」という言葉が出てきた。はじめて聞く言葉だったが、富山の方言で「末っ子」という意味で、「おとんぼ」は家族の中で最後に生まれてきた子供であり、よって親と一緒にいる時間が一番短く、親の愛情を最も少なくしか受けられない子供ということで、可哀想な存在と言うことらしい。「おまえはおとんぼだから可哀想だ」と玄関に出ようとするぼくに向かって、繰り返し、ぼくを見るために椅子から反り返りながら言った。ぼくにとってそれが父の最後の言葉だった。

ほとんど実家に寄りつかなかったぼくの人生だったが、父は、ぼくのそういう生き方を哀み、同時に自分の人生をそれに投影していたのかも知れない。思えばぼくの人生も14歳にして家を出された父の人生に似ているともいえる。彼もずっと寂しかったのだろうと思う。以来、父のこの最後の言葉を思い出すことが多い。もっといろいろ父と話すことがあったような気がしてならない。

2002年8月29日木曜日

田端強君のこと

2002.8.29


田端強君のこと


歳をとるにつれ、古くからの友達が抜け落ちるように逝ってしまうことは悲しい。「長生きして良かったことは」と聞かれたさる高齢の財界人が「厭な奴が全部先に死んでしまったことだよ」と寂しそうに答えたという話を聞いたことがあるが、この世の中には厭な奴より良い奴のほうが数としては多いわけで、またたとえ厭な奴であってもその人との関わり合いとは自分の人生の確かな一部であったわけで、人は歳をとることにより必然的に悲しい思いを積み重ねざるをえない。特に小さいときからの友人を失うことはとてもつらい。田端強もそのひとりであった。

彼と知り合ったのは中学校の時だったと思う。机が前後して接していたので自ずと言葉を交わすようになったが、通学ルートが違うので最初は友達と言うほどでもなかった。当時の灘中生の通学経路は、3割が阪急岡本駅を利用、3割が国電の住吉駅、また3割が阪神の魚崎駅利用で、残る1割が阪神国道を走る国道電車と大ざっぱに分かれていて、学校から帰る途中で同じ電車を利用する者同士で寄り道したりして親しくなることが多かったのだが、彼と杉山は阪急組、僕は国道電車組だったのであまり顔を合わせることがなかったのだ。親しくなったのは高校になってから杉山和彦を介してのことだったと思う。三人でよく遊んだ。

田端は裕福な家庭の長男で父親の愛情をふんだんに受けて育っていた。夏の暑いときは当時は普通の人は見たこともなかったクーラーのある応接間で勉強させて貰っていたし、夏休みは勉強と称して涼しい山の上の六甲ホテルでひとりで過ごしていた。またお父さんが香港で買ってきたというローレックスを腕にして、家のセドリックを自由に乗り回していた(昔は16歳で運転免許が取れた)。そんな高校生はさすがの灘高にも少なく、地味な家庭に育った僕なんかにはものすごく格好良く見えた。畏敬さえ感じた。でも彼はそれをことさら自慢するでなく、また恥ずかしがるのでもなく、ごく自然に振る舞っていた。

彼と僕は京都大学に進学した。同級生は東京の大学に進む者が多くに行く、京都に行ったのは少数派だった。特に僕が入った経済学部には灘高出身者はひとりも居らず、寂しかったので彼の百万遍の下宿によく泊まりに行った。彼は勉強が厳しい工学部に入学したので「経済学部のぼんくらとは一緒に遊んでられない、じゃまするな」と時々追い返されたが、それでも彼の下宿の大きなベッドによく一緒に寝た。もちろん変な関係ではなく二人ともまだ子供だったのである。でも彼の方が成熟が確実に進んでいて、先輩としていろんなことを教えてくれた。酒の飲み方とか、服装の選び方とか、女性とのつきあい方とか。初めて女子大生とグループ・デイトをしたのも彼と一緒だった。体育会ヨット部に入部できたのも彼に付いていったからだ。受験勉強から解放されて彼を師としての京都での自由な生活は、本当に素晴らしく、数限りない楽しいことを一緒に経験した。

ところが、彼はもともとからだが丈夫じゃなく肝臓に問題を抱えていた。やがて彼の宿痾がぶり返すことになる。大学院に進む直前に彼は入院することとなった。一時は処方された強い薬の副作用で髪の毛が抜け落ちるということもあり悲惨だった。しかし、のちに田端夫人となる鈴恵嬢の献身的な愛情を受けて彼は再起する。

この間、深く考えることがあったのだろう。その時以来、彼はそれまでのどちらかといえばプレイボーイ的な生活とはきっぱり別れを告げ、徹底して真面目な生活をはじめた。長男であるにもかかわらず家業を継ぐことをやめ学者になる道を選ぶ。一転してそれまでの物質的なライフスタイルを、背伸びした格好が悪い贅沢として軽蔑するようになった。その変身ぶりにはみんな驚いた。

僕は大学を出て就職し、しばらくして海外に行ってしまったので、田端とだんだん縁遠くなった。海外から帰っても東京に住むことになり、彼とはなかなか会う機会もなかった。田端にしてみれば僕などはとっくの昔に卒業した軽薄な時代の遊び友達という分類に入っていたのかもしれない。彼が亡くなる前の数年間は年賀状も来なかった。あとで田端夫人に聞くと、晩年は体調が悪い状態が続き、健康に生活しているむかしの友達にどう近況を伝えていいか判らず、本人はとても辛そうだったとのことだった。

1991年8月、突然彼が亡くなったとの知らせを受けた。お葬式で彼の長男にお目にかかったが、彼と瓜二つだった。一度夫人と一緒に三人でゆっくりお話し出来ればと思ったが、その機会もないまま今に至っている。

僕も歳をとった。そのなかで田端強はいつまでも若く、人生で一番うきうきしていた時代の象徴として、僕の心に深く残っている。何でもかんでも彼のまねをした当時を懐かしく思い出す。最近、僕も今まで馬鹿のように熱中していた消費型のライフスタイルをうざく感じるようになり、それから距離を置くようになってきている。これは田端強が数十年前にすでに悟っていた境地に近いのかもしれない。彼はいつになっても僕のライフスタイルの先達なのだと思う。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年7月8日月曜日

杉山和彦君のこと

2002.7.8

杉山和彦君のこと

杉山が死んでからちょうど4年になる。神戸港の埠頭での無惨な最期だった。理由はわかっていない。

杉山と友達になったのは、多分中学3年生か高校一年生の頃だろう。学校からのスキーに行くとき急行「ちくま」で同じところに座った。彼と一緒に座れて良かったと漠然と感じたことを覚えている。癖のある連中が多い学校だったが、杉山は芦屋のぼんぼんらしく品がよくって社交的だったから。スキー場でリフトから、彼がなんでもない緩やかな斜面でああ向けざまにひっくり返ったシーンも覚えているから、風景からして中学校のころ毎年行っていた野沢温泉ではなく、妙高か赤倉だったと思う。だったら高校一年生だったのだろう。

彼はぼくのことを「スマイリー」とあだ名を付けた。当時聴衆の方を向いてバンドを指揮することで人気があったスマイリー小原に額が似ているとの理由。カタカナのあだ名はちょっと格好が良くうれしかった。彼の交友範囲はいわゆる遊び人タイプの阪神間のぼんぼん連中であり、おかげでそれまでは遠くで見ているだけだったそういう連中とのつきあいも出来た。亡くなった田端強もその一人だった。田端は16歳の時に運転免許を取っていたので彼の運転で三人でよく遊び回った。車はそれぞれの親の車を順番に無断拝借するのだが、出来たばかりの名神高速をぶんぶん飛ばしたり、六甲山に上ったり、子供だったからそんなことで楽しかった。三宮近辺の、当時は不良のたまり場とされていたジャズ喫茶に杉山とよく行った。ふたりともウクレレを弾く程度で楽器は駄目だったが、不良の振りをするのが好きだったのだ。

大学になると杉山は慶応に行き、ぼくと田端は京都だったので別になってしまったが、夏休みなどは一緒に遊んだ。正月にいきなりぶらっと来て二人でドライブに出かけたのはいいけれど、西国街道を北に進むうちに調子に乗って「ぶんぶん」進みついに舞鶴まで行ってしまった。ロシアの貨物船が日本海に浮かんでいるのを見てさすがに遠くまで来たと心細くなり、そうそうに帰路に就いたが、帰りの雪道でパンク。杉山のお母さんの車を正月に持ち出していたので後で大目玉を食ったこともあった。

大学時代、杉山は原宿にアパートを借りていた。皇家飯店の横を入ったあたりだったが、当時から原宿は遊びスポットとして注目を浴びていた場所。住むところといいいでたちといい杉山はいっぱしの「遊び人」で、いろいろその方面の蘊蓄を聞かされたが、不思議なことに彼と女性を交えて遊んだ記憶はない。口や格好とは別に、女性にはシャイな人間だったと思う。卒業論文も見せてもらったが立派なものだった。就職が決まるとすぐ「財界」とかの経営雑誌を読み始め、財界内情についてとかいろいろ彼の「講義」を聴かされた。ウブで世間知らずのぼくにとって彼は「人生の先輩」であった。

卒業してから彼は化学会社に就職したが、しばらくして辞め親戚筋の老舗企業に移った。その会社の社長の娘と結婚したので、やがては跡を継ぐとの含みとのことだった。だが会社は奈良にあったので彼も奈良に転居し、田端は一転して真面目な大学の先生になったり、ぼくは外地に行ったりして、それまでのあそび仲間と頻繁につきあうことが少なくなった。葬式の時に仲間の一人が「杉山も可哀想に、奈良みたいなところに行ったから駄目なんだ。阪神間に居ればこんな事にならなかった」とぽつりと漏らした。

ぼくが外地から帰ってきて、ある理由で実家に出入りできなかったとき、「困っているときこそ友達だろう」と言って杉山はぼくと家内の関西でのロジスティックを世話してくれた。彼の会社は全国に工場を持っていたので東京には頻繁に出張してきた。その際よくぼくのマンションに泊まった。半年に一度ぐらいは会っていたのだろうか。いつも変わらない馬鹿話と自慢話をするなかであったが、ただ彼が社長を引き継いでからは、ちょっと座ったような目つきをしていることがあり、社長業のストレスの強さをかいま見る思いもした。

彼が亡くなる数ヶ月前、彼と神楽坂で飲んだ。ちょうどぼくが個人的トラブルを抱えていたときでつい愚痴っぽくなったら、杉山は急に反対サイドに立って感情的に説教をはじめた。腹を立てたぼくが「そんなこと言うやつは友達じゃない」といってしまい彼は一転して如才なく話題を変えたが、妙に気になった出来事だった。ぼくが抱えていた問題と同じ種類の問題を彼も抱えているのだと第六感で感じた。

2-3ヶ月たって彼から電子メールでぼくの書いた文章に対する感想を寄越してきた。誉めてくれていたのだが、いままで無かったことであり珍しいことだと思った。へんに真面目くさった文章でありこれも奇異に感じた。それから一ヶ月ちょっとして彼は死んでしまった。

困ったときこその友達だろうに! 最後まで弱みを見せなかった杉山と役に立てなかった自分が腹立たしく無念である。7月8日夜中、彼は車を出して、自宅のある奈良から楽しい子供時代を過ごした神戸まで彷徨ってきたという。そのとき彼の頭のなかには何があったのだろうか。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年2月16日土曜日

〔再掲〕わたしの阪神大震災

わたしの阪神大震災〔再録〕

六千数百人の命を奪った阪神大震災から5年。個人的にも忘れることが出来ない事件であった。ちょうどそのとき関西に用事があり、宿泊していた西宮の両親宅で地震に遭遇したのだ。寝ている上にタンスが倒れてきて、更にその上に屋根が落ちてきた。身動きがとれず、土埃と屋根の重みで息も出来ない。右足の膝から下だけは、わずかに動いたので、体を少しずつその方向にずらして行き、最後は無我夢中で一気に脱出した。抜け出たところは崩れた屋根の上で、頭上には一面の星空があった。

それから罹災者生活が始まったが、余震が続く夜中、手帳に書き付けた「死なないためには」と題するメモが残っているので紹介したい。1)タンスの下では寝ないこと。どんなことをしてもタンスは必ず倒れる。2)ボロ家には住まないこと。古い家は例外なく壊れてしまった。3)水を確保すること。食べ物なぞはなくとも三日ぐらいは平気だが、水がないと本当にどうしようもない。井戸があれば一番よい。

この三点を心に決めて、交通手段の復旧と同時に東京に帰ってきた。しかし、以来5年、ひとつも実行できていない。寝ている部屋の壁には相変わらず本棚がある。住んでいるところも古い木造住宅だ。井戸を掘ることにいたってはだれも冗談だと思って相手にしてくれない。なぜ実行に移せないでいるのか。それは経済的な問題である。タンスのない広い部屋にも、頑丈な家を建築するにも、井戸を掘るにも、たいへんなお金がかかる。日本では最も基本的な「死なない」ことが、きわめて高くつくのである。

日本の個人金融資産が1300兆円だとか、GDPは世界二位だとか、日本はえらくお金持ちの国であるかのような錯覚がある。だからODAも大盤振る舞いだ。新年の各紙の社説にも、もう経済成長を追い求めるのはやめよう、生活の質の方が大切だ、という論調が目立った。でも大部分の国民が地震ですぐ壊れるような家に住んでいて、どうしてそんなことがいえるのか。生活の質は物質的な裏付けがあってはじめて得られるものだ。ゼロ成長でもかまわないと言うには、はっきり言ってまだ十年早いのである。少子化が進み、ひ弱な若者が増え、経済成長率の低下は不可避とする議論があるが、それにも同意できない。

阪神大震災の話に戻るが、地震の直後の瓦礫のなかで、子どものような若い婦人警官がひとりで、信号機が停止した街路の交通整理をしているのを見た。怪我した家族を車に乗せた男が大声で叫びながら猛スピードで交差点に突っ込んで来るのだが彼女はいっさいひるみを見せなかった。以来、筆者は若者と女性の悪口は言わない。労働力問題は若年層と女性の就業率を上げることで十分対応できる。

(橋本尚幸)

2001年12月1日土曜日

いわゆる「体育会」的なもの

「紺青」2002 Vol. 21 (2001年会報) に寄稿


いわゆる「体育会」的なもの


たまにではあるが、悪いものを食べて寝た晩など、紐の夢を見ることがある。何か差し迫った状況の中、必死でなにかの紐を結ぼうとするのだが、うまく行かない。状況はどんどん悪化して行く。だれかに大声でせきたてられているのだが、どうしても「舫結び」のやり方が思い出せない。「わあ、どうしよう」というところで目が覚める。ヨット部でクルーをしていたときスキッパーから怒られた経験が、いまだにトラウマとして残っているのだ。

ことほどさように、僕はできの悪いクルーであった。もともと体育会ヨット部に入部したのもスポーツが苦手であるくせにスポーツ選手にあこがれていたため。普通の運動部だったら中学高校からの経験者がうなるほどいるだろうが、ヨットなぞやっている高校生は少ないから同じスタートラインで勝負できる。ひょっとしたら自分もいいところまでいけるかも知れないという期待があったから。でも入部早々、その期待が甘かったことをさんざんに思い知らされることとなった。

それでもなんとか四回生までヨット部を続け、最後は全日本にも出ることが出来たのは、かなりラッキーだった。郷にいれば郷に従え、朱に交われば赤くなる。上級生になると入部したときの苦労は何とやら、スナイプの上で怒鳴り散らすスキッパーとなっていた。クルーの丸山清喜君には今でも悪いことをしたと思っている。でも当時はそうでなければ勝てないと思っていた。

卒業して社会人になっても、しばらくはディンギーのクラブ・レースなぞに出たが、問題はクルー。なり手がなかった。家内をうまく言いくるめて一緒に乗って貰うのだが、続かない。あんたはあまりに serious だという。レースとなれば遊びじゃないのだから真剣にやらねばならないと説明しても、日本人はテンションが強すぎてヨットには向いてないと暴言を吐く。家内はフランス人でブルターニュの海で小さいときからディンギーに乗っていた。ご存じのようにあの辺のディンギー乗りは凄い。でも云っている意味がよくわからなかった。

ようやく家内の云っていることがわかったのは、ベネズエラに駐在したとき。ビーチ・クラブでスナイプに乗ることになって、あるとき知り合ったフランス人の若者にちょっとスナイプを貸してやったが、彼の乗り方にまさに驚倒した。家内と二人で出ていったのだが、しばらくすると家内を下に座らせて自分でバランスをとり、完全にティラーを放して、セールのトリムとバランスだけで自由自在にスナイプを操りだしたのである。あれはとてもまねが出来ない。後で家内に聞くと、かれは完全にリラックスしていて、冗談いいながらの楽しいセーリングだった由。あんたとえらい違いだったと笑われた。

日本のセーリングの歴史も結構長くなった。アメリカズカップにも何度も出場できるぐらい資金的にも余裕が出てきている。でもセーリングの技術水準はまだまだ低いと認めざるをえない。特にうまいスキッパーの数が少なく、底辺が育っていないように思う。どうも選手育成の段階における、硬直的な上下関係に基づく練習風土、いわゆる「体育会」的風土がそれを阻んでいるように思う。どのスポーツでもそうだが、歯を食いしばってただただ努力するやりかたでは、ある一定のレベルには到達してもそれ以上は難しい。特にヨットのような個人競技の色彩が強く、遊びのファクターが大きいスポーツでは、自由に楽しみながら技を極めるという姿勢が大切ではないか。

「何を今更、今はもうそういうやり方で練習しているよ」というなら、これほど嬉しいことはない。

橋本尚幸(S43卒、スナイプ)





1998年11月30日月曜日

杉野さんとアルページュ

〔旧HPより転載〕


杉野さんは亡くなってしまった。向井さんも島氏さんも、江面さんも酒井さんも、みんな亡くなってしまった。楽しいときがあれば、終わりもあるのだ。


杉野さんとアルページュ杉野さんとアルページュ杉野さんとアルページュ
杉野禾吉さんとアルページュ
1998.11 アオレレ (AOLELE) 文集に寄稿


はじめて杉野さんにお会いしたのは、もう30年近くも前になりますが、油壷に浮かぶ青いアルページュの上でした。僕は当時、東京に出てきたばかりの新入社員で、一年先輩の島氏さんの紹介でアオレレに寄せてもらうことになったのです。夏も終わりのある土曜日の午後(当時の住商では土曜日は各週で出勤でした)、向井さんの車で油壷に向かいました。道は混んでいましたが、長者が崎をまわったとたんに、青い海と白い雲が目の前いっぱいに広がり、とても感動したのを憶えています。

道ばたにアシタバが生えているヨッテル際の細道を下り、テンダーを漕いで、お椀のように丸くて背が高いヨットに到着しました。それがアオレレで、なんでもフランス製のアルページュという最新型プロダクションボートで、この春の太平洋横断シングルハンドレースで堂々二位で三崎にゴールしたものを、アオレレメンバーの得意の英語交渉力で買い取ったとのことでした。僕がその高いスターン(その時はまだ梯子がついていなかった)を苦労してよじ登るのを、コックピットから助けてくれた人が杉野さんで、白い半ズボンに、学生帽のような青い帽子がとても印象的でありました。

アオレレでは毎晩が酒盛りでとても盛り上がりました。向井さんは、アルページュの近代的なキッチンで盛んに料理をつくり「このジョンジョン(日本酒)は美味しいよ」と剣菱を呑んでました(わたしは関西育ちなのに剣菱の名前も知らなかった)。江面さんは「式根という島に行くと、崖下の浜に温泉が湧いていて、そこに入っていると目の前に夕陽が見えて、波がどーんと跳ねかえって、とーてもチョーワ(良い)よ」と話してくれました。冨島さんは「ミラノに出張で行ったが日本の円を交換しようとしてもどこでも換えてくれなかった、日本はまだまだアンデーな(良くない)国よ」外国のみやげ話をしていました。島氏さんは「ネー、ネー(了解、了解)」と云いながら、いつもニコニコされていました。隣の船の方がアジのたたきを作ってくれました。(こうやってバイ菌を一つづつ殺すのよ、といって包丁で盛んにアジを叩いておられました)。その他にもいろんな楽しい人たちが集まってアオレレは毎晩にぎやかでした。杉野さんは「普通の船はまずハルがあってその中にキャビンを埋め込むのだが、この船はまずキャビンを設計してその外側にハルをとりつけたのよ」とアルページュの居住性をこよなく愛しておられました。

進藤さんが船にミス・エクアドルを連れてきたり、杉野さんがビール会社の宣伝に船を提供したので美人モデルが大挙してやってきたり、それはそれはドキドキするような楽しいことがいっぱいありました。はじめての初島レースでは、強風のなかでスキッパーの沼口さんの英雄的なティラーさばきに感動しました(明け方になっても頑張って舵を引く沼口さんの頬に、青々と髭が(進行形で)伸びてくるのをみて、ただただすごいと思いました)。向井さんが大きなシイラを釣って、それを皆で食べ尽くしました。そのまま鍋に放り込んで揚げたアナゴのてんぷらも絡み合っていてすごかった。波布の港の岸壁で、御神火という焼酎といっしょにはじめて食べたクサヤの美味しかったこと。日曜日の夕方になると杉野さんの年代物の青い「トラック」をだましだまし運転して東京に帰ってきました。アルページュに乗っていた時の僕たちは本当に楽しく幸せでした。

でもしばらくして僕はアルゼンチンに行くことになり、油壷を去りました。杉野さんも考えるところがあり、会社を辞められ日本を離れました。杉野さんはアルゼンチン経由でブラジルに向かわれたのですが、ブエノスアイレスのバスターミナルで、一人でブラジルに発つ杉野さんをお見送りした時は、さすがに感無量でした。

向井さんが「ヨットマンは常に超現実の世界に理想と夢を求めるのだ」との趣旨のことを云ったことがあります。僕も同じように感じることがあります。船首を大海原に向けてティラーを引くとき、この世のしがらみは後ろに残し去って、すばらしい希望に向けて船を進めているような気になるのです。人生においては、僕の場合、理想と夢は空想の世界の中にそれを求めることで我慢してきたように思います(空想への逃避をしていたのです)。しかし杉野さんの場合は、勇気があり、あくまでも現実の世界における夢と理想を追求され、実践されたのでした。

杉野さんを思い出すとき、どうしても青い色が浮かんできます。相模湾の青い海。杉野さんの青い帽子と青いダッフルコート。杉野さんの青い「トラック」。そしてあくまでも青いヨット「ブルー・アルページュ」です。

アルページュといえば、同じ名前のフランスの香水があります。家内はごく若いころ、この香水をつけていたのですが、それはもうずっと昔のことで、いまはその香りも嗅ぐこともありません。アルページュとは、永遠に「青春の香り」なのかも知れません。

(橋本尚幸)